天商第一校歌 夕古城を仰ぎみて
作詞 佐々木信綱 作曲 田村 虎蔵
夕古城を仰ぎみて 豊太閤を偲ぶ時
朝はるかに築港の 上にたたずみ思ふとき
嗚呼偉大なる此のながめ
棚引きのぼる煤煙は 空紫に立ちこめつ
安治川口の帆ばしらは 水に林を見る如し
進取に富めるこのながめ
進取偉大の志 かかる自然に養はれ
わが東洋の商業を 統ぶる都に学び得つ
我等が幸の多きかな
国の栄えは商業の その伸長に待たざるや
見よ青年の往く処 希望は常にそこにあり
東西万里往かんかな
明治38年(1905)9月、日露戦争の勝利を祝して、当時同盟国 英国の洋艦隊が日本に表敬訪問し大阪港に入港した。大阪市は中之島公会堂や公園で歓迎会や親善行事を催し、大阪高等商業学校の職員と生徒は接待委員として通訳や接待につとめた。艦隊司令官ノエール提督はその労を多とし、謝礼金200円を学校に贈呈した。その使途について協議の結果、校歌制定や発表披露式典の資金とし、東京帝国大学文科大学講師、文学博士 佐々木信綱に作詞を、東京高等師範学校教授 田村虎蔵に作曲を依頼した。明治40年(1907)校歌完成、同年2月8日中之島中央公会堂に於いて発表披露会開催、大阪第4師団軍楽隊の演奏を持って発表された。この歌は大阪高商を母体とする姉妹校、市立大阪商科大学の学歌となり、天王寺商業学校の校歌となった。
この校歌の第3節「進取偉大の志」第4節「東西万里往かんかな」
の溌刺とした語句が天商健児の心の拠り所となり、天商健児の人生指針・人生訓となった。天商生がこの校歌を誇りとし、彼らの集会には必ず歌っている。そして「東西万里」「進取」が天商の校訓となり、標語となった。明治13年の創立以来、校訓は「士魂商才」に通じる「正々堂々」であったが、明治40年校歌制定以来「東西万里」「進取」が天商精神を表現する言葉となった。
天商現校歌 難波津の万葉の
作詞 前 登志夫 作曲 森 正
難波津の万葉の 梅の花をかざし
手をとりて 手をとりて われらは歌う
伝統のゆたかさと 商業のこころを
いざゆかん いざゆかん
世界にひらかれた天商の道 ああ進取大志の道を
難波津の百年の 知恵の花をかざし
手をとりて 手をとりて われらは励む
学問のゆたかと 人間のこころを
いざゆかん いざゆかん
大阪にそそり立つ天商の塔 ああ東西万里の塔を
難波津の青春の 愛の花をかざし
手をとりて 手をとりて われらは誓う
信頼のゆたかさと 真実のこころを
いざゆかん いざゆかん
未来にひらかれた天商の窓 ああ自由創造の窓を
昭和23年(1948)学制改革により男女共学が実施されることになり、同年10月大阪市立御津女子商業高等学校の生徒全員を本校に編入した。共学後、最初の卒業生(高4回生・昭和27年度)220名の男女の比率は男子90%、女子10%であった。その後、女子の入学生は毎年増加し、15年後の高19回生(昭和42年度)には、男子52%女子48%と、ほぼ同数となった。しかるにその後累年女子の数が増加し続け、17年後の高36回(昭和59年度)には男子はわずかに4%女子96% 完全な女子校となった。この年校長 山本弘忠氏によって女子高校生向きの第二校歌が制定された。その後にも男子の比率は5%と9%の間を低迷し、現在はこの校歌が歌われている。
作詞者 前 登志夫氏は奈良県吉野地方在住の歌人で、旧制奈良中学・同志社大学出身。
作曲者 森 正氏、旧27回生(昭和24年卒)音楽部員 1921.12.14生まれ、20世紀を代表する指揮者、フルート奏者、昭和17年(1942)東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)卒業、昭和19年(1944)東京放送管弦楽団のフルート奏者として在籍しながら東京音楽学校の助教授となり後進にフルートを教える。昭和27年(2952)11月歌劇「蝶々夫人」を指揮してオペラにデビュー、脚光をあびる。NHK交響楽団、藤原歌劇団、京都市交響楽団ほか、多数の音楽団体の指揮者、音楽監督をつとめる。1984年紫綬褒章、NHK放送文化賞、井庭歌劇賞。
昭和62年(1987)5月4日没