29期昭和16年卒、戦争の影響をモロに受けた。在校中柔道部選手として名を連ねた7名中生存者は私独り。あとは皆戦死。私は戦死こそ免れたものの、4年間シベリア抑留の憂き目を見て、粗食と想像を絶する寒冷の中で作業を強いられた。同胞が次々と死んでいくのを涙する暇もなく、明日は吾が身といつも思いながら幸い生きのび故国の土を踏んだ。
故国も亦、荒れ果てていたが、心を通わせる友がいる事が嬉しかった。
凍土の中で裏切りや、だましあいで痛みつけられた心が解けて、胸襟を開く友がいるという実感が何よりであった。
簿記、そろばんが苦手で(何で天商に入ったんだ)体操、武道の体育系で点数を稼ぎ、優駿揃いの天商生の中で二桁台を保った。
今、後輩の諸兄姉から見ると、戦争ミイラであるが、その頃は国を挙げて「戦い」を叫んでいて常に死と隣あわせの時代だったのだ。
(中北 亘 記)
29期昭和16年卒、今年で90歳になる。思えば遠くへ来たもんだ。我々の頃の天商は“天商卒なら嫁にやろか”といわれた。頭脳明晰(筆者を除く)容姿端麗(筆者を除く)校舎はボロだったが生徒は光っていた。
又、運動場は市電(路面電車)一駅間の広さを誇っていたものだ。今、連絡のとれる同期は僅かになったが、それでも消息のとれる者は懐かしく、文通や小集会を持って旧交を温めている。
頭の良い奴から順に天に召されるようだから(鳥井弘一、美島精一、小野良一etc )
筆者には縁のない事で当分安心。
社会的には現役を退いている者が多いが、いずれも意気軒昂。どっこい生きている…。
(中北 亘 記)
各期だよりで先ず頭をよぎったのは、まことに残念な「大谷晃一氏」の逝去である。
29期は当年九十歳前後。いつ訃音に接しても不思議ではない齢ではあるが、このように優秀な人材から順に亡くなるとは天の配材を疑う。
大谷晃一。アダ名を「デンキ」といった。
電球を逆さに立てた形状からきており「デンキ」は我々の如き浅学非才の輩と違って在学中も物静かな秀才であった。
卒業後、上級学校その他を経て朝日新聞に入社。その文筆の才を開花させた。
天商生に「イヤミ」な奴はいない。皆心の交流があった。
教科書を持って来なくて、教科時間前に他の教室に借りに回った。この交流「エエカッコ」が絆を固くしていたのであろう。
ともあれ、増える事のない同期は残された者のこの絆をいっそう固くして思い出と共に生きてさえいれば心は通っているのである。
29期、九十歳前後、同期は優秀な奴から順に天に召されるようだから吾人は全く心配ないが生きている限りその絆を共に大切に守り育ててゆきたい。
(中北 亘 記)
29期の一部は月1回第3木曜に集まって交歓している。名称は「三木会」場所はその名も懐かしい「桃谷楼」網田、木村、中北、三井、山埜の5名。
話題は(医者と薬はタブー)天下国家を論じ談論風発、といえば雄壮だが、天下国家の一部、烏ヶ丘の懐古、それで十八歳のニキビ面に回帰する。
京橋の駅でモテモテでラブレターの絶えなかった「立上君」だからアダ名は「ラブ」
胴長短足ガニ股偏平足の柔道部は横目に見ながら指をくわえ、親を恨んだ。
それでも「天商卒なら娘をやろか…」と云われた天下の天商に学んだ誇りは今も胸にある。
29期はアタマのいい奴から早世するようだ(鳥井、小野、谷口ETC…)その伝でいけば私は極めて安心。
減ることはあっても増える事の無い同期は一層お互いを励まし絆を強くし前進する。
(中北 亘 記)
29期89歳。云わでものことだが、遥けくも来つるものかな……の感。はるけく来すぎて追憶の彼方が模糊として定かでない。
戦争ゴッコから本物のそれまで体験した世代。ケナゲに生きて来たが、櫛の歯が欠けるようにポツポツと折れてきた。
谷口正治君急逝。29期の記録を丹念に纏めてくれ、1泊会合では下見までして会に備えてくれた誠実な君の逝去は、大きな痛手である。一同ご冥福を切に祈る。
上杉謙信は「残躯豈楽シマザルベケンヤ」と言ったとか。謙信たらずとも楽しみたいが楽しむにはヒマと◯が必須。そのどちらも縁の無い吾人にとって唯一の據りどころは「友」29会の方達は掛け替えの無い財産である。
今一度改めて申し上げる。
「二九会よアリガトウ」
(中北 亘 記)
二九会は大正12年(1923)前後に生を享けた世代で、入学の頃世は戦時色に塗り潰された灰色の時代であった。
軍国主義時代とて商業は「文」の範疇に入り、「武」とは程遠かった。それでもリベラル天商生は「東西萬里」を謳歌した。
現在29期は87歳前後となり、各種会合では
「長老」の座を奉られる。
会合出席可能数は概算49名。健康で意気軒昂。加齢と共に仕方ない事だが「アルケナクナッタ」と言っても「有る毛無くなった」が
正しい読み。
10名前後が月1回顔を合わせ往時を偲んで
「オダ」をあげている。
戦争をくぐり抜け、飢餓をのり越えた我々の世代は「ドッコイ生きている」の世代。
これからもしぶとく生きていく覚悟。
(中北 亘 記)
各期だよりを書く事になってハタと気付いた。書く事が無い? 「西部戦線異常ナシ」
齢85歳は、ありていに言えば天商時代考えても見なかった。目の前に戦争が迫っていて、「死は鴻毛より軽し」と覚悟せよと決め付けられた時代。
よく生き延びて、爆弾の雨の中、戦後の飢餓の中をひたすら駆け抜けてきたもの。
29期(昭16卒)天商100年の中で僅か5年。それでもその5年間は何物にも替え難い貴い大きな財産となっている。
世は百年に一度の不況でも、この5年間の絆は何物にも勝り難い。
「西部戦線異常ナシ、報告スベキ件ナシ」
レマルク著のこの本は当時の愛読書。今引用しているのは「報告スベキ件ナシ」のフレーズ。
29期皆元気。加齢による衰えも少ない。
卒業203名逝去136名消息不明15名現在52名。
一同意気正に軒昂・健康。
(中北 亘 記)
2008
まさに灼熱だった夏が嘘のように秋風が立ち、御堂筋の公孫樹の落葉がカサコソと風に舞う。ためらっている秋を冬が駆け足で追い越してゆく11月20日、二九会は恒例ホテル「一栄」に12名集まった。外は寒くともヤアヤアと手を上げ久闊を叙するたび熱気上昇。11:30開会。中北司会大谷乾杯。中北から校歌百周年祝典報告とハイスクール(2012年開校予定)概要、次いで谷口二九会現況報告。故前田君の後任に網田推薦、全員賛成。
開宴。談論風発。飛びかう話はおおらかさ、爽やかさ。赤ん坊の笑顔みたいなもので直接ハートに訴えてくる。宴酣、だれ彼となく立ち上がり円陣、肩を組み「情けもござる・・・」が湧き上がり永富のリードで三三七拍子。次いで「東西萬里」を腹の底から蛮声張り上げて高唱。万物を吐露してスッキリ爽やかな顔、顔。
我々がずっと心の中に温め続けている言葉「二九会よアリガトウ天商生ダッタコトニアリガトウ」
(中北 亘 記)
2007
間近に来ていた春が冬に逆戻りした3月24日、二九会は恒例「ナンバ一栄」に18名が集まった。
東から井上、塩見君。中京は松井君遠路参加。珍しく大谷君の顔もみえる。
来し方84年の中、ボロ校舎で学び、校庭北隅の白いクローバの花に寝転んで、熱っぽく青春を語り合った5年間は、極めて密度の濃い忘れ難い期間だったのだ。
記憶が風化していく中で、過去現在を語りあえる友があることが嬉しい。
11時開会。物故者に黙祷、幹事の挨拶と報告があって宴に入る。語り合う友は面輝かせ互いの瞳を見つめ、言葉をどまん中の直球で魂の奥深く投げこむ。それで充分、我々の会話に饒舌はいらない。
カラオケ登場、勢い盛ん。やがて自然に円陣肩を組み永富君の三三七拍子で情モゴザル
そして校歌「東西萬里」が湧き上がる・・・
『ともどもに同じ青春の丘に駈けし者
また再びこの丘に帰り来て集い合いぬ
われら再び生を受け
気品ある闘志を秘めて駆けゆかん』
(宮本 輝)
「東西萬里」は部屋一杯に響き、キラメキ、
気品ある闘志をかき立ててくれる。勇気と元気を与えてくれる。万歳三唱 14時解散。
『春の雲 結びて解けて 風のまま』
肩をたたき、手を握り、固く再会を約した。
(中北 亘 記)
2006
老いせぬや薬の名をも菊の水、杯も浮かみ出でて、友に逢うぞうれしき、この友に逢うぞ嬉しき。謡曲「猩々」友と昔を振り返って重ねる菊の水(酒)が嬉しい。二九会。
18年4月18日ナンバ『一栄』に17名集まった。今を去る65年前、200名卒業(送り出されたか押し出されたかは、人により異なる)その中から17名は心強い。
午前11時半集合。集まると一気に初期化されて職業、地位、信条、一切関係なく通じあえる青春の友に会える場である。でも、それ以上に大切な何かが一杯詰まっている場でもあるのだ。
会は同窓会報告から宴に移り、食欲旺盛。カラオケ蛮声。時の移るを忘れ、話は尽きぬ懐旧談。やがて「情モゴザル・・」の歌声は三・三・七拍子と共に天井のシャンデリアに跳ね返る。
思えば大正末期に生を享けた我々の青春は「忠君愛国」を叩き込まれ、生命を賭して燃えた時代を経たが、天下の天商に学んだリベラルの血を誇りに、戦後の荒廃した世の中をひたすら駻馬となって駆け抜けたファイトがある。それがいま凝結し高揚し「東西萬里ゆかん哉」円陣、肩を組んで心の底から高唱した。心の奥深くに在る「ガンバルゾ」の回路を刺激してくれる二九会。午後3時半。
固い握手で再会を約し袂を別った。
(中北 亘 記)
2005
眼つぶれば 若き我あり 春の宵 高浜虚子
眼をつぶると65年前の自分にかえるが、眼を見開けばそこに懐かしい同期生がいる。二九会5月17・18日近江路雄琴温泉で開催参加15名。旧闊を叙する間ももどかしく、肩を叩き手を握って二九の18才に戻る。
長い人生の中でたった5年間共にいただけなのに何故こんなに懐かしいのか会場は昨年よりグレードアップし「緑水亭」各室露天風呂付きVIP仕様。会合は椅子席谷口幹事苦心の設定。・・会は果てしなく盛り上り
「イザ歌わん哉、我らが青春の歌天商工一ル'情もござる血もござる・・」
円陣肩を組んで蛮声高らかに、東西萬里を合唱すれば感極まって目をウルませる者も。
「コイツ等ホントに高齢82歳なのか?」(ハシタナイ言葉つかってゴメン)
席を替えて二次会。若き我ありを実感。
翌日はホテルからバスを仕立てて琵琶湖大橋を湖西近江八幡へ・・ここで水郷めぐり、屋形船の人となる。新緑の葦の葉を翻えしてさわさわと風が渡り鏡の如き湖面にひびくのは櫓の音。都塵にまみれた心が清々しく洗われる。
「新緑と薫風は、私の生活を貴族にする 萩原朔太郎」
近江八幡駅で再会を約し東西袂を分かって解散。一同は懐旧の情を深め、そこから湧いて来る勇気、元気を土産とした。
(中北亘 記)
2004
昭和16年卒、齢(よわい)81の青年。16年4月15日琵琶湖畔雄琴温泉湯元館に集まる20名。顔を見合わせヤアヤアと握手すれぱ初期化して二九の十八歳に戻る。
バスの観光乗降を避け、夕食歓談もテーブル席とした今年の試みはそれなりに評価されて良いと思う。肩を組み頬を紅潮させ校歌をドナル同級生。81年の人生で僅か5年の時を共有しただけの級友なのに心に深く焼きつけられているのは何故だろう。センチメンタルと笑われそうだが、振り返る過去を共有しているのは幸せだ。
翌日は叡山坂本にある竹林院で抹茶を嗜み名園を鑑賞。ひとときの静寂の中に芒洋たる追憶に浸る。昔は今よりもっとゆったり時が流れていたのだ。白毫院で昼食。満開のしだれ桜の並木はほのかな色香をとどめて婉然と微笑みかける。元気を交換し生きる勇気を持ち帰る我々の会。また元気で会おう「二九会」
中北恒記
2003
二九会開催は年2回。春は関東中京在住と東西合同。秋は在阪一同。卒後62年を経て尚、勇躍参加する会。集まってお互いに元気と勇気を交換、交歓する場であれぱこそ、心の中に有る情(じょう)が惻々と強くなってくる。
秋の合同は14年10月16日大阪心斎橋「湖月」。参加23名。卒業202名、現在74名のうち23名参加は31%の出席率。決してハンパな数字ではない。二九会の皆の
心意気と熱が籠もっているのだ。
40にして惑い、50にして立たず、漫然還暦を送り、喜寿は無為通過、すでに傘寿を迎えた昭和16年卒。戦時色高潮の時局。もっぱら質実剛健。異性など見向きもせず・・と信じてきたが、今にして恩えぱ、質実は「もてない」剛健は「蛮カラ」…を美化したに過ぎなかった。あれから62年、様々な栄枯盛衰を経てきた身には、友情が心に沁みわたり、集まれば一層その思いを深くする。昼間開催が好感される午後1時集合開催。情けもゴザル…に湧いてくる思い出を込め、タベ古城…に絆を深く強くし、健在と不変の友情を確かめあった二九会。
(中北亘記)
2002
春爛漫の駿河路をひた走るバス。車窓へ早く来た春の満開の桜が微笑みかける。
二九会・東西合同大会は、3月25・26日、浜名湖ロイヤルホテル。今年はファミリーの参加を得て、男の子19、女の子5、東から7、中京1の計32名。
例会は6時開始 懇親は7時前から始まり、カラオケありアカペラあり、女性たちのカラオケの上手さに一同唖然呆然あふられっぱなし。かくてはならじと第29回の18歳の青年たちはウマイ、ヘタ、取り混ぜ放歌高吟・・・やがてシッカリ肩を組み円陣、沸き上がる天商エール「情ケモゴザル血モゴザル」そして「夕べ古城・・東西万里行かんかな」皆の顔は紅潮し胸を張って青年に返る。
思えば戦争のお陰で青春らしい楽しみを知らず、勤労奉仕に明け暮れ、青春の甘ずっぱさも味わうこと無く、少年からいきなり戦士や働き蜂に短絡変身を強いられた昭和16年卒。あの頃失ったものを拾い集め肩をたたいて確かめあう二九会。
翌日は三保の松原、日本平、遠州三山を巡って掛川駅頭で東西が別離。東組を囲んで三・三・七拍子。期せずして沸き上がる万歳三唱は男のロマンだ。
友情を交歓し、心を高揚し、二九会の永続を確かめあった合同大会であった。
(中北 亘記)